「設計の天才」ウィリアム・トンプキンスの経歴に迫る!【コズミック・ディスクロージャSeason5,Episode11】

2019-07-09

原文:Cosmic Disclosure
WILLIAM TOMPKINS BIO
翻訳:Rieko

Season5,Episode11


David Wilcock:
ようこそ、今回はものすごい内容です。
これから航空エンジニア、ウィリアム・トンプキンスの経歴の概略を見ていただきます。
彼は広範囲にわたるスクープ的知識を持って、内部告発者として名乗りを挙げました。
この番組でこれまでコーリー・グッドと話してきた秘密宇宙プログラムに関し、彼は具体的なデータを持っています。

ウィリアム・トンプキンスの輝かしいキャリア、その素晴らしくも複雑な詳細をぜひご覧ください。

ナレーション:ウィリアム・トンプキンス

なぜか、私は9歳ごろの時、海軍船舶の模型を作ることに興味がありました。



よく図書館に行っては(船について)もっと詳しく、細部まで調べて情報を得たものです。
図書館でわかる範囲の事は調べ、時折ニュースでもあらゆる海軍の船の放送があれば見たりしていました。

父は私と兄をロングビーチに連れて行ってくれました。
私達はハリウッドに住んでいたのです。




週末になるとロングビーチに連れて行ってくれました。
1930年初期で、当時の海軍は、日本の中国に対する態度を懸念していました。



海軍は東側の海軍を西海岸に移動させると決定しましたが、港がありませんでした。



それでロングビーチのすぐそばの防波堤の建設を待つことになりました。



この防波堤はかなり大きく、東側の海軍と太平洋艦隊の両方の対応が可能でした。



この両方の船が入港するなど、かつてなかったことでした。
私にとってはすごいことでした、そこまで降りて行って… 撮影は禁止されていましたが、レーダーや機密仕様の部分をスケッチすることができました。
ロングビーチからほんの10~12ブロックのところに船があったのでね。




週末はその海軍の船が一般に解放されていて、普通の人でも船に乗ったり周辺を歩き回ることができました。
それで私の父親は私と兄を連れて行ってくれました。

私は航空母艦にとても興味を持っていました。
その頃は二つ、「レキシントン」と「サラトーガ」が停泊していました。




この途方もなく巨大な母艦は長さ1000フィート(300メートル)、高さは11階建ビルに相当します。



中に入ると巨大なハンガー(格納庫)があり、それは目を疑うほどの大きさでした。

ですが、私にはそれが誰かが造った宇宙船のように見えました。
そういう風に見ていたんです。
ですから、私が空母「レキシントン」を作るためにはさらなる情報が必要でした。

レーダーについての情報が必要でした。
他にもあらゆる細かい部分が必要で、5インチ銃、20ミリ銃、40ミリ銃、それらを取り付ける場所など。
その頃はすべての船を戦闘用に改修していて、当時の最新機器を装備していたんです。




レーダーの詳細部分のデータを得るために私は離着陸デッキを歩き、司令塔の隣にあるタワーの頂点まで上りました。
そこから見える影を使ってあらゆる方向に歩き回り、数値を測って記録しました。

そうやって形やサイズを割り出していったのです。
数学を使って実物サイズを測るのがとても得意でした。



それから空母の船首まで歩いて行くと、秘密の航空機射出機が並んでいました。
より速く離陸するための装置です。



もちろん機密のものでしたが、私はただ歩き回って数値を把握し、戻りました。
そして父親の運転でハリウッドに帰る間に、私は全体像のスケッチにとりかかるという具合でした。



そして翌週、学校が終わると私は詳細図を描きました。



そうやってその部分を作っては、模型に付け足してゆくのです。



こうして40ほどの船の模型コレクションができました。
そして誰かがその事を聞きつけました。




新聞社も聞きつけて、「僕の海軍」といった記事を書きました。



そしてハリウッド通りのブロードウェイ・デパートから「正面ウィンドウにその模型を展示したい」とリクエストを受けました。



デパートはその展示のために大きなエリアを設営しました。

会場には私が座るデスクを置き、スタッフも用意され、私はどうやって模型を作ったかデモンストレーションをすることになりました。



平日の放課後も週末も、私はそうやってデモンストレーションをしました。
かなり大変でした。

この展示について書かれた初めての記事が、海軍の目に留まりました。
海軍の人達が休暇をとって基地からハリウッドにやって来ていたのです。
ハリウッドに行くつもりだったのでしょうが、記事を見て模型を見にやって来ました。



彼らはその模型の正確さを見て信じられませんでした。
そこで、そのうちの一人が海軍諜報部にコンタクトをしました。
ここから話は大変なことになります。

ウィルシャー通りにあった父親の職場に、海軍諜報部がやって来ました。
サンペドロからです。
彼らは父親を拘束し、2日半調査してやっと彼はロシア人でもスパイでも何でもないと判断しました。

ですが話の内容から、彼らは次にハリウッドにあった私達の小さなアパートに現れました。
私は兄と同じ部屋で寝ていたのですが、部屋の中は私がいろいろ書き込んだ紙が部屋の壁半分の高さまで山積みになっていました。

諜報部員達はこの小さな部屋に入ってきて、それを見ました。
調査しました。
そして3日後にまたやって来ました。
もう一度それらを見直しました。
4日後にまた戻ってきて、私の手元にあったものをほぼすべて、見直しました。

何百ものスケッチ、何百もの描画、全体像の下書きのようなものも何百とありました。
色んなクレイジーなことを把握し、どう組み立てれば模型になるかをそうやって思い描いていましたからね。

そして、彼らは私の父親を解放しました。
その後、私達は父親の事業のためロングビーチから引っ越しました。
ビーチからほんの11ブロック先に移ったのです。

これで私はビーチに行って、最新の船を作れることになりました。
それが実にうまくいきました。

私はそこで2年間、特別学校に行きました。
そしてハリウッドに戻り、ハリウッドの中学校に入りました。
そして当然、設計の授業をとりました。



隣に座っていた女の子は、私が設計図を描くその速さが信じられないようでした。

私は最後まで、授業では誰よりも先を行っていました。
私は独学で、すでに出来るようになっていたからです。



卒業してハリウッドハイスクール(高校)に入ると、その女の子が英語のクラスにいました。
私は内向的な性格でもなかったけれど、ただ…
英語は嫌いでした。
人前で話すとか、そういうことは嫌でした。

その彼女と休憩時間に話したりして、私は少し落ち着きました。
そんなことがあり、ある時先生は私を指名し、皆の前で話をするように言いました。

それで私は船の模型の話をし、空母やデストロイヤー、クルーザー、潜水艦、その他もろもろに乗りに行った時のことを話しました。

その授業では話し方を学び、名指しで呼ばれるほどまで上達しました。
新聞に船の模型が載ったことをハリウッドスタジアムで話しました。
さらに海軍の4つの団体にも話しました。

私はプロの講話者のように話せるようになっていました。
そのクラスのお陰で、信じられないほど私は変わったのです。

海軍の関係者の一人が私の父親に連絡をしてきて、私と兄をウィルソン山の望遠鏡のところまで連れてくるようにと要請してきました。
パサディナの東部にある、美しい高地エリアです。



この100インチの望遠鏡を覗けるなんて、特別なことでした。

そして宇宙飛行士のミーティングで話を聞かせてもらったり、彼らは日常の勤務に参加させてくれたのです。

そこでやり取りされている質問の中に、宇宙には何もないといった内容があったので私はビックリしました。

私は何となくその時点で知っていた。
宇宙には惑星があり、そこに誰かが住んでいることを知っていたんです。
疑問の余地もなく。

それで私は二度、その話題を取り上げました。
もちろん、却下されました。
そこにいた人達は天文学を8年研究してきており、どういう状況かを知っているからです。
でも、彼らは知らなかった。

そんなちょっとした事がまた海軍諜報部に伝わり、私の父と私はサンペドロに拘束されました。
私が海軍に入り、プログラム導入のための一連の手続きを行うためです。
その内容は知らされていませんでした。



入隊直後は新兵訓練所ではなく、カリフォルニアのロスアンゼルスエリア、ダウニーにあるヴァルティー航空社に送られました。
現在の北アメリカスペースシステムです。




ノースアメリカンでの仕事とは、ET通信システムの変換、使用化、複製の作業でした。

その後ロッキードに移り、そこで風洞に関わりました。



その後、風洞から引き抜かれて別の研究に移されました。

ロッキードは確かに良い企業だけど、サンタモニカのダグラスには何かがあるなと感じていました。



そしてダグラスに移り、製図者として契約しました。

そこで船の模型のある部屋に入りました。
あっという間にダグラス社は私の船模型を使って至る所でダグラス航空機会社の広告を出しました。



その後ダグラス社の副社長が私をつかまえ、巨大な帆船の設計を言い渡されました。
彼がサンペドロで契約したダグラスSr帆船のコピー版です。

それで私はサンペドロに行き、計測をして設計図を作成しました。
やり方は心得ていたので、短期間で実物も造りました。
そしてそれは彼にクリスマスプレゼントとして贈られたのです。

というわけで、私はダグラス社の副社長と親しくなりました。

それでダグラス社で製図者として働いて二週間した頃、課長が私の経歴を確認し始めました。

当然、海軍での履歴もすべて載っています。
そこで私はシンクタンクに入れられました。
初めに行くシンクタンクというのがあり、これはダグラスのある場所の、壁で囲まれたエリアの中にありました。



中で200人が働いていました。
私の任務の一つは12年前からの仕事で、ダグラスに持ってきたものです。
私が海軍にいた頃、ダグラスまで飛行機で行ってダグラスの工学部に渡していた仕事でした。

このファイルにあります-これを見てわかりました-この中に、私が海軍にいた頃の仕事の書類があります。
私が飛行機で行って彼らに手渡したとあります。



これが後に、初のシンクタンクになりました。
後のTRW社と同様、我々は地球外生命体のすべてを調査するのです-
軍事面、商業面、何であれすべて。



そして私はアメリカ海軍の16~18階級にわたる戦闘艦隊の船の設計を命じられました。
当時はその艦隊はまだ存在していませんでした。




大きい規模になると1~6kmサイズになりました。

これらの船は宇宙を飛びます。



宇宙船のための空母です。
私はアメリカ海軍宇宙船空母を設計し、それは1970年代後半にユタ州の地下でようやく造られました。

アメリカ海軍の宇宙船、ソーラー・ウォーデンの写真は見たことがあるでしょう。
ソーラー・ウォーデンはダグラスの工学部にあるシンクタンクが作ったのです。

さらにたくさん、あらゆる物が作り出されました。



この記事は
「コズミック・ディスクロージャ」の本家サイト閉鎖のため、
~新しい扉の向こうへ~様より転載したものです。
翻訳:Rieko


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