1922年にはすでに反重力エンジンが完成していた!本当の地球の歴史とは?

2014/10/02
「コブラ情報」に大変ユニークで興味深い記事が掲載されていたので引用しておこう。

http://www.viewzone.com/vril22.html

[前半]

by Dan Eden

そしてこのように始まった・・・

始まりはイギリスで、遡ること1589年。ウィリアム・リーは19歳の聡明な若者で、靴下編みに熱中してしいた少女と恋仲だった。16世紀、靴下は重要なアイテムで、手編みに時間はかかっても、編まないわけにはいかなかった。



彼は16歳で全額給付の奨学金でケンブリッジに通っていた天才だった。彼が「発見者」になるのも当然なことだった。大学を卒業して2年後、故郷の町で役人をしていたリーは恋人と出会った。そのときはまだ、彼が歴史を変える運命にあろうとは知る由もなかったが、その後すぐに歴史は変わった。

満たされない性欲は、力強い意欲となる。彼はそれを自分の知力に振り向けた。彼は愛する人の手の動きをまねた機械を作り上げた。世界初の靴下編み機を製造したのだ。こうして彼は恋人を感心させると共に、靴下編みから解放してあげた。

彼はエリザベス一世に機械を献上し、特許を申請したが、女王は許可しなかった。彼女は、社会が混乱する可能性を察し、国中の編み手たちへの心配を口にした。彼女はまた、もしかしたら、機械化された世界のぎょっとするような様相を予感したのかもしれない。

 リーは結局、フランスへ編み機を移したが、あまり報われなかった。彼は貧困のうちに亡くなった。――まるでニコラ・テスラのようだ。そしてテスラと同様、彼の発明は結局世界を変えた。リーの死後、弟ジェイムズがイギリスに戻り、ウール、コットン、シルクの靴下を製造する、初の機械化された工場を操業した。それが産業革命へと繋がっていく。

国中に広がる不安と憂鬱

16世紀、人生はシンプルだが苛酷であった。農民がほとんどで、上層階級の畑を耕しているのも同然だった。平均寿命は35歳で、国民の半数がぎりぎりの生活を送っていた。工場の出現、都市化と安い製品は、ほとんどの人たちにとっては進歩であっかたが、良かったのは最初のうちだけだった。



手作業からスチームエンジンへの移り変わりは、都市部に悪臭漂う環境汚染をもたらした。人々は不健康な状況下、長時間シフトで繰り返し作業に従事していた。人々の平均寿命は倍近くに伸び、工場で織物が豊富に生産されたものの、人々は幸せでなかった。周期的な疫病や病が、集中型文化を生きている彼らから命を奪った。不満が最高潮に達すると、「アンチマシン」と労働者争議が多くの国で勃発した。工業化社会が実現すると、後に続くのが労働者争議だったのだ。

我々の文明が選んだ方向を、ほとんどの集団が嘆いていたが、いくつかの集団は積極的に取り組んだ。カール・マルクスは共有の概念――マルキシズム――をもたらした(1840年)。マルキシズムでは、労働者は国家の参加者としての権限を与えられる。工場主の利益の動機は、「国民の良きことのために」という新たなレーゾンデートルに取って代わる。悲惨なライフスタイルと貧富の格差に対する、この革命は、とうとう共産主義として受け入れられ、帝政ロシア皇帝の代わりにすげ替えられた。そして西欧にもじわじわ広まっていった。

ドイツ人も、産業革命に伴う同じような不安を抱えていたが、彼らは別の解決策を選んだ。共産主義政権によるドイツ産業の国営化を堪え忍ぶよりは、国家社会主義による解決策のほうが――私的所有の産業が大きな役割を果たすほうが――良かったのだ。不死鳥が蘇るがごとく、ドイツは自らをつくりかえ、市民は誇りをもって国家に仕えた。ギリシャの都市国家スパルタを手本にしたイデオロギーは、起業家と反共産主義者の支持を得た。

今日でもそうだが、社会的ストレスは、時に人々を現実逃避の手段として、宗教やオカルトに関心を向けさせるものだ。第二次世界大戦前のドイツでは、古代シュメール、契約の箱、オーディン、アスタルト(古代フェニキアの豊穣多産の女神)などに関する考古学レポートが、人々を魅了していた。人々は、ドイツがもっと強く、もっと誇らしかった時代に繋がっていたかったのだ。当時は「精神生活」について知ること、ユートピアへの道にどうすれば戻れるのかを学ぶことに、大きな関心が寄せられていた。ヘレナ・ブラヴァッキーの神智学協会とツーレソサエティは、もっとも影響の大きかったオカルトグループだ。

あるとき、一般市民が『来たるべき種族』に取りつかれたようになった。1871年に匿名で書かれたのだが、多くの人たちが、著者はエドワード・ブルワー=リットンだと信じていた。もともとは「サイエンス・フィクション」と見なされていたが、後に大勢の読者が、地下の優れたマスター種族についての記述と、「ブリル」というエネルギー形態が、真実かつ正確なものであると信じるようになった。大勢の神智学徒たちが、その本を真実として受け入れると、本当に奇妙なことが起こった。

地球外生物との接触

1919年、12月のことだった。トゥーレ(ツーレ)ソサエティの長、カール・ハウスホーファーは、最も評判の高い一握りのオカルティストを、アルプスのふもとの森にある、人里離れた小屋に招いた。ベルヒテスガーデンに近い場所である。ゲストにはテンプル騎士団の代表者と、アジアの遺物研究の専門家がいた。皆が集まったとき、ハウスホーファーはあるサプライズを披露した。並外れて美しい若い女性2人が、グループに加わったのだ。



1人は非常に物静かだった。彼女はようやく18歳になろうかという年頃で、ある理由から本当の身元は秘密にされたままだった。彼女は「ジークルーン」と紹介された。彼女の重要性は、[後半]の記事で明らかになる。

もう1人はマリア・オルシック[写真]。息をのむような美貌は別として、2人は、(当時の流行に反して)ものすごく長い髪をしていて、ポニーテールで垂らしていた。ハウスホーファーは彼女たちを霊媒だと紹介し、マリアが地球外生物の文明から通信を受け取ったことを発表した。いくつかの通信は自動書記で行われており、変性意識の状態でマリアが書き記していた。彼女は見慣れぬ記号の並んだ数ページを、グループに見せた。



ハウスホーファーは前もって、そのページを知人らに見てもらっていた。彼は、あるページはテンプル騎士団の秘密のコードで、別のページは「シュメールのアルファベット」で書かれていると判定した。両ページともすでに翻訳されていた。文章の内容はショッキングなものであったが、その文章に価値があることを明らかにしていた。――反重力エンジンの作り方だったのだ!

あらゆる手を尽くし、ハウスホーファーは著名な科学者ヴィクトール・シャウベルガーに、そのデザインを物理学観点で調べてもらい、可能性があるということを署名で承認してもらった[写真下]。


マリアは、自分がコンタクトしている文明はおうし座が発祥だと説明した。特に、相手はアルデバランに軌道をもつ、ある惑星からの存在だった。その反重力エンジンは、「ブリル」と呼ばれるあるエネルギー源で作動する。また、時間を変える能力があることも述べられていた。その文章には、エンジンを作り、テストし、ふさわしい人間をミーティングのために、彼らの世界に移送できるだけの詳しい内容が記されていた。

トゥーレソサエティは、霊媒能力と「異星人」とのコンタクトで注目されていたが、彼らの主な関心は、ドイツ国民に影響を及ぼしていた、非人間的で不健康な産業革命に取って代わるものを見つけることだった。その反重力エンジンは、マリアによれば、この進歩した種族から人類への「贈り物」だった。豊富なエネルギーがあれば戦争をしなくてもすむと与えてくれたのだ。だが、トゥーレソサエティは、そのエンジンをタイムトラベルのために欲しがった。彼らはスピリチュアルな真実をもっと学べるように「神々が地上を歩いていた」時代に戻ることを夢見ていた。

ゲストたちはマリアが明かしたことを信じた。彼らはエンジンを製作するために、トゥーレソサエティ及び他のオカルトグループの、裕福な起業家に財政支援を求めることに同意した。マリアはすぐに、このプロジェクトへの寄付を募るために説明する役を任された。

ブリルエンジンが完成した

ブリルエンジンを完成させるという同じ目的をもっていながら、トゥーレソサエティとブリル協会の動機は別のものだった。トゥーレソサエティは実際的で、利用できる新しいエネルギー源を見据えていた。ブリル協会の方は、エイリアンと接触し、彼らから学び、できれば彼らの世界を訪れることに関心があった。

1922年、トゥーレとブリルは共同でJFM又の名を「別世界の空飛ぶ機械」を製作した。それはただのエンジンで、2年間テザー上でベンチテストが行われた。反重力と時間の歪みが記録されたのは、この頃だった。事前の予告も無しにJFMは突然解体され、アウクスブルクのメッサーシュミット社の工場に「将来使用するために」運ばれた。

プロジェクトはW.O.シューマン博士(ミュンヘン工科大学)が率いた。彼は後に浮揚ユニットを研究開発した。それは、シューマン・ミュンヘン浮揚装置、あるいはSM浮揚装置と呼ばれている。シューマン博士は科学とテクノロジーに対し、独特の見方をしていた。二つの対立する原理、爆発(悪魔の業)と爆縮(神の原理)を信じていたのだ。テンプル騎士たちもこの考えを持っていた。(おそらくピタゴラスが発見した「秘密」の知識と思われる)。

「あらゆるものに、私たちは出来事を決定づける二つの原理を認める。光と闇、善と悪、創造と破壊――電気にプラスとマイナスがあることを私たちは知っている。常に、どちらかなのだ」。

「この二つの原理、創造と破壊は、私たちの技術手段をも決定づける・・・破壊的なものはすべて悪魔的起源に由来し、創造的なものはすべて神に由来する・・・爆発や燃焼に基づくテクノロジーは、従って悪魔的と言わねばならない。来たるべき新たな時代は、新しい、ポジティブな、神のテクノロジーの時代になるだろう!・・・」

――シューマン博士 (SS資料より)。

ブリルエンジンは作動中、何も消費、爆発、破壊しなかった。それは完全にトゥーレソサエティの哲学に適合している。ブリルエンジンは、この「神の原理」に関与するものとして、ブリルエネルギーの研究を促した。



トゥーレソサエティは過小評価されており、我々の歴史書からも事実上削除されている。今日のヨーロッパでは、一見常軌を逸した法律が、これらのソサエティを露わにしたり、論じ合うことを禁じている。だが実際、トゥーレソサエティはナチ党の結成に大きく寄与していたのだ。彼らの、あまりにもたくさんのオカルトシンボルは、第三帝国を意味している。かぎ十字、SS(ナチス親衛隊)の稲妻、鉄十字、「黒い太陽」のシンボルは、オカルトに由来するシンボルのほんの数例に過ぎない



トゥーレの関心がますます政治と権力に向けられていったのに対し、ブリルは秘教的な追求にとどまっていた。ナチのリーダーは皆、トゥーレのメンバーで、マリア・オルシックの存在が明かされた後はブリルに加わった。アドルフ・ヒトラー、アルフレート・ローゼンベルク、ハインリッヒ・ヒムラー、ヘルマン・ゲーリング、そしてヒトラーの専属医テオドール・モレル・・・内集団の全員が、ブリルとトゥーレのメンバーだったのだ。

JFMの成功は、仲間内からドイツの首長が出た1933年まで、秘密が保たれていた。ヒトラーが、トゥーレとブリルに "Gesellschafts" (ゲゼルシャフト:共通の利益を中心にして結合した社会。利益社会という意味)の開発許可を与えたと言われている。彼は、その技術が兵器として活かせることを理解していた。

ブリル側が1937年に、アラド-ブランデンブルク航空機施設の隣でRFZ(Rundflugzeug)即ち「円形航空機」シリーズの開発を指揮した。RFZ系の円盤はそこでテストされ、ついにRFZ-7が出来上がった。



一方トゥーレ側は、この新しいエネルギーの利用の仕方を研究しながら、スペシャルSSユニットであるE-Ⅳに取り組んでいた。彼らは秘密の場所で、ホイネブルクという独自の円盤プロジェクトを持っていた。――それはテザーされて(繋がれて?)いなかった。彼らの円盤[写真]は1935年の初めに、H-Gerat (ホイネブルク装置)、略してホイネブとして知られるようになる。1939年にはその円盤のTriebwerk(Thrustwork)エンジンが完成した。トゥーレによってホイネブ-1が、アラド-ブランデンブルクのテスト施設に移されるときはRFZ-5というコードネームで呼ばれた。トゥーレのTriebwerk は電磁重力系エンジンだった。心臓部は、加熱水銀のはいったタンクと3つの平行ディスクだ。タンクは高速回転しており、平行ディスクはそれぞれ相対する方向に回っている。伝導体になった水銀に磁場との相互作用を起こさせる。水銀は超伝導体のように振る舞い、周囲の環境を局所重力の影響から隔絶する。

最近の考察では単原子ゴールドの反重力観測を、加熱水銀に生じているかもしれないことになぞらえている。他の原子との凝集結合に関わっていない原子 "solitary atoms" は、通常なら結合に費やされるエネルギーを取り戻して加速し、核粒子の軌道を歪めることが知られている。この歪みが、なぜか重力の影響から原子を自由にする。

反重力エンジンは、航空機を重力から隔絶しただけだった。実際に浮揚させたわけではない。重力を除外することで必要とされるエネルギーが大幅に減少したものの、円盤が上昇し大気中を移動するには、依然としてパワーが必要だった。ジェットエンジンを搭載させた型もいくつかあり、時速2,900~12,000㎞に達した。トゥーレグループは最終的に磁気パルススラスタ(推進機)を設計した。それは、反重力状態になってから航空機を操縦し、推進させるのに役立った。こうした磁気スラスタは「爆発」原理ではないので、理想的な解決策だった。



1944年までに、トゥーレはホイネブⅠ-Ⅲシリーズを手掛けた。いくつかは実に巨大な円盤で、200部隊を収容できた。長さ139メートルの円筒形母船は "Andromeda-Gerat" (アンドロメダ装置)と呼ばれた。一方、ブリルグループの勝利は7つ目の輸送船、Vril-7で、惑星間旅行用に設計された。

戦況が連合軍側に優位になると、トゥーレは製造施設をポーランドの深部鉱山に移した。彼らは強制労働を使い、円盤の開発を続けていた。最後の最後まで。――鉱山が洪水に見舞われ、連合軍側が近寄れないほど崩れた。この施設にあった円盤はすべて流されたものと信じられている。



しかしなかには、少なくとも一機か二機は無事に回収されたと考えている人もいる。跡地には巨大発電機の基礎が見える。電線管は、今日まで残っている大きなコンクリート・プラットフォームの中心まで引かれていた[写真上]。

ブリルもまた、退避する計画を立てていたが、こちらの方はもう少し手の込んだものだった。彼らには最高傑作「惑星間」円盤Vril-7があったが、もっとも似つかわしくない安全の地に移す用意ができていた。マリア・オルシックがコンタクトを取って以来、ブリルメンバーは歳月をかけて、テレパシーの相手方であるエイリアンについてたくさん学んでいた。事実、ブリルが得たエイリアンの情報により、すでに潜水艦と補給船は戦争遂行のための資源輸送から――よりによって――南極への資源輸送に移っていた。

アルデバラン文明:そこに行ったし、それもした・・・



ブリルの霊媒たちによると、テレパシーで通信していた種族は、アルデバランを回る二つの居住惑星のうちの一つの惑星の種族だった。おうし座のアルデバランは古い星で 68光年の距離にある。歴史的な遺物では、彼らは常に角(horn)と共に描かれている[写真――角をかたどった頭飾り]。彼らがコンタクトしてきたのは、人間の行動、なかでも我々の好戦的な習性を観察してのことだった。彼らは人類に「贈り物」(ブリルエンジン)を授けることにした。資源とエネルギー――人間の戦いの原因――を求める争いをなくすために。

数百万年前にアルデバランの人たちは「ブリルエネルギー」を利用するに至った。我々が電気を理解しているのと似ているが、もっと極めた使い方をしていた。彼らはメンタルな能力を発展させていたので、このブリルエネルギーと交流することができた。創造の目的にも破壊の目的にも利用していた。

彼らの太陽は自然の成り行きとして赤色巨星になった。居住惑星の環境条件は生物学的ストレスを引き起こし、ブリルを利用するだけのメンタルな能力を失うまで退化したものもいた。彼らはこのことに気づき、ただちに純粋なアルデバラン種を、退化した系統から隔離した。そして劣等種を産んだり、関わったりすることに厳しくなった。彼らの太陽系の環境が悪化すると、「エリート」アルデバラン(人)は自分たちの種族を――純粋系統、劣等系統ともに――別の居住世界に避難させた。地球もそのうちの一つだった。

ゼカリア・シッチン(1922-2010)がシュメールの伝説を広めるずっと前、前世紀の変わり目に、このようなことが報告されたのだが、古代シュメールの伝説に同じ物語をたやすく読み取れる。シッチン説のように、アルデバランたちは、3,600年ごとに我々の太陽系に入ってくる「黒い太陽」の破壊的影響に気づいていたし、地球に住めなくなることもわかっていた。アルデバラン人種は地表から退いて、南極大陸の下の「空洞」へ移った。そこから彼らは人類を観察し、その運命をコントロールしようとしてきた。

アルデバランは、このことが誰にとっても信じ難いことを理解していたが、自分たちが地表で暮らしていた証として、彼らは地球上のたくさんの巨石遺跡を指摘した。ともかく、彼らはブリルエンジンのプランに関しては100%の証拠を提供していた。ひとたびそれが完成し、テストされれば、世界は決して同じままではなくなる。

ドイチュラント…我々には問題がある

ブリル側と同様、アルデバラン側にも「贈り物」が無分別に使用されていることが明らかになった。砲塔つきの円盤、遠隔操作用「兵器」円盤の製造は、もともとの動機に反していた。ブリル側は、南極大陸地下のアルデバラン人居住者を訪ねた。十分な証拠書類で裏付けられている通り、彼らは地下にある島ニュー・スウェイビアに入植するプログラムを開始した。第二次世界大戦中の後半期に、SS(ナチス親衛隊)は特別繁殖計画を実行した。アルデバラン人種と同じように、子孫が、この南極大陸を征服するよう定めたのだ。

アルデバランに関するこのような事実が、本当か想像なのかは我々には知る由もない。だが、ブリルのテレパシー能力者が受け取った製造プランがとても正確だったから、"Jenseitsflugmaschine" 「あちら側への空飛ぶ機械」がうまく完成したのだ!

ブリルの目撃レポート

「・・・1926年2月19日にポーランドのワルシャワで生まれた。 1942年5月、戦争捕虜としてポーランドから、ドイツのGut Alt Golssen――ベルリンの東30マイル――に連れてこられた。彼は終戦の数週間後までそこに留まっていた。

'SS'の看守が現れ、トラクターのドイツ人運転手と簡単に話をしていた。5分から分するとノイズは止み、トラクターのエンジンは正常にかかった。およそ3時間後、同じ湿地帯の道から外れたところで、作業班は草を刈っていた。ドイツ人の監督がいたし、乾いた場所には 'SS'の看守もいたので、彼は盗み見るように円形の囲い地を観察した。広さは直径約100ヤード(約90~135メートル)、およそ50フィート(約15メートル)の高さの防水シート状の壁で中が見えないようにしてあった。



そこから円盤がゆっくりと上昇し、壁よりも上にすっかり姿を現した。そして目の前を水平方向にゆっくり進んだが、木が遮って見えなくなった。

およそ500フィート(約152メートル)離れたところから見たその円盤は、直径75~100ヤード(約67~90メートル)、高さおよそ14フィート(約4メートル)、ダークグレイの固定型トップとボトム――それぞれが5~6フィート(約1.5~1.8メートル)の高さ――で成り立っていた。中間部分は高さ3フィート(約0.9メートル)で、急速移動コンポーネントと思われた。それは周縁部を、飛行機のプロベラのようにぼやけさせていたが、円盤を観察できるだけの輪郭は見えていた。円盤が発しているノイズは先に聞いたものと似ていたが、ややピッチが低かった。このときトラクターはまたエンストしたが、ドイツ人運転手は音が止むまで何もしようとしなかった。音が止むと、エンジンは正常にかかった」。

それからこんなケースもある:

「1967年4月26日、[目撃者]がマイアミオフィスに現れて、今では未確認飛行物体と呼ばれている、ある物体に関する以下の情報を提供した。伝えられるところでは、 1944年11月に撮影したらしい。



1943年に彼はドイツの空軍士官学校を卒業し、ルフトバッフェ(Luftwaffe)(ドイツ空軍)のメンバーとしてロシア戦線に配置された。
1944年の終わり近くに、彼はこの任務を解かれ、オーストリアの黒い森でのトップシークレット・プロジェクトのテストパイロットを任じられた。この期間に彼は上記の航空機を目撃していた。直径約21フィート(約6.4メートル)の円盤形、無線操縦機で、外側部分の周りにいくつかのジェットエンジンが搭載されていた。彼の説明によれば、外側部分は中央ドームの周りを回転するが、ドームは静止したままである。飛行中のその物体を撮影するのが、彼の任務だった。彼は、ある写真のネガを保持することができ、それは(高度?)7,000メートルで自分が作製した写真だと断言した。



彼によると上記の航空機[写真]は、あるドイツ人技師が設計、製造したもので、現在の居場所は彼にはわからないという。彼はまた、この航空機に関する機密情報は、連合軍が掴んでいるものと推測していた。このタイプの航空機は、少なくとも一機の爆撃機を墜落させる目的を負っていたと彼は言った。

同様の飛行物体に関する未確認情報と、このような航空機の所有を合衆国が否定しているために、彼はだんだん不安になってきたのだ。彼は、このような兵器がベトナムで役立ち、アメリカ人のさらなる死を防げるだろうと感じている。それが、彼が連邦捜査局(FBI)に連絡してきた主要な目的だった」」。[Redfern, N and Downes, J]

彼らは今どこに?

戦争中、特に後半になると、ドイツのUボート(第一次、第二次世界大戦のドイツの潜水艦の総称)は頻繁に南極大陸、南アメリカ、オーストラリアに向かった。ドイツはまた、南極の海に気象ブイを浮かべ、南極と南米の先端の間にある島々に気象観測所を設けた。1942年にSS RuSHA(親衛隊人種及び移住本部)は、ウクライナからアーリア人女性をBase 211に移送する作戦を開始した。



ロシアに赴いていた2,500人のWaffen SS(武装親衛隊)と共に、金髪で均整の取れた体つきの17~24歳の女性、1万人が集められた。

この壮大な作戦の目的は、居住に適したコロニーをBase 211につくり、トゥーレ-ブリルの技術開発をそのまま続けることにあった。トゥーレとブリル、どちらのゲゼルシャフトも終戦時には、SSのカムラー将軍のもとで、そのテクノロジーをBase 211 に移転したと信じられている。カムラー将軍は、ドイツの最高機密兵器プログラムを担当していた。

 戦後、アルゼンチンで降伏した2隻のUボートが、貨物とSS高官をBase 211に運んでいたとも信じられている。どちらのボートも降伏時には空になっており、乗員は貨物と目的地を明かさなかったという。

ハイジャンプ作戦・・・ナチ残党探しか?

1947年アメリカ海軍はバード少将のもとで、ハイジャンプ作戦を実施した。海兵隊員4,000人、13隻の巨大艦船、数機の大型航空機とヘリコプターを動員しての南極探検だった。目的は、南極大陸の沿岸線を地図に起こし、鉱物及び野生動物の目録、分布図を作ることにあった。遠征期間は6ヶ月に及んだ。

沿岸湾、リトル・アメリカに探検基地が置かれ、テント設営地もつくられた。そこでは調査用航空機の整備も行えた。チーム分けされた隊員たちは、写真による調査のための大判カメラをもって、南極の隅々に散らばった。オーストラリア大陸南西の真向かいにある地域を撮影する隊員は、現地に到着したときショックを受けた。彼らは、その沿岸部には氷がなく、水温が38F(約3.3℃)であることを、無線で報告した。彼らはそのまま撮影し続けてから、現像するために戻った。



この画像はグーグルアースに座標を合わせれば誰にでも見ることができる。(訳者;2014年9月30日現在では、雪で覆われている画像になっていました)。垂直に接近するよりは少し角度をつけて、真北を維持するといいだろう。幅およそ180フィート(約55メートル)、高さ230フィート(70メートル)の入り口が見える。外には、表面が平らになっているところあり、いかにも人工的だ。

この件の後、ただちに遠征は中止され、すべての艦船と海兵隊員は合衆国に帰還させられた。このミッションの成果は、60年経っても機密とされている。バード少将だけが、遠征からの帰還中にチリのジャーナリストからのインタビューを受け、突然の帰還についてコメントしている。彼は今回の遠征で、ある危険に遭遇し、それは自由世界のすべての国を脅威にさらす原因になると述べた。彼はこれに関する詳しい説明は避けた。

[後半に続く]



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